三木の日記

納得は全てに優先します

後悔に似ている

逆向き

𝕏(旧Twitter)には「気球が道の先に飛んでると視力検査っぽい」っていうあるあるがあるらしいが、生まれてこのかた目がずっと良いせいでそのあるあるが全くもってわからない。ところが𝕏(旧Twitter)に長いこと触れていると、そういうあるあるもあるのだろうなと受容することによってさも自分で体験したことがあるかのように共感してしまうことがある。これはインターネットという集合知を通して存在しない自分の体験を捏造してしまったという事だろう。こういう些細な事なら良いが、これから更にインターネットに触れる事が多くなっていく事を考えると、"体験"することの欠如に繋がりそうで、自分でどこかに行ったりすることで生まれる感動が薄まってしまったら嫌だなと思う。旅行計画を立てる時もあまりるるぶを読みすぎるのは良くない。

欠けていることに憧れる人間は少なくない。私は生まれてこのかた目がずっと良いので「視力が下がる」という感覚がわからない。小学校の頃、目が悪いことがかっこいいと思っていたため、「俺も目悪いよ〜」などと嘘をついて自分も「目が悪い」という属性を得ようとした。今改めて考えると、「目が悪い」という事について話しているときは、「目が悪い」という属性を持っている事は本質的ではなく、「目が悪い」という事象について意見や体験を交わすことで理解深めていたのだろうなと思う。そんな会話に嘘の属性を持ち込んでまで参加しようとした己が割とみっともないなと感じる。あの時、私はどの立場でどのように会話に参加するべきだったのだろうか。それとも、あの場所は「目が悪い」ことが前提の会話で、目が悪くない私にはそもそもそこに入ることは許されなかったのだろうか。